皆さんこんにちは。健康福祉学部放射線学科4年の吉川奏太です。
まず初めに、これまで東京都立大学硬式野球部を支援してくださっている皆様、応援してくださっている皆様に心より感謝申し上げます。そして今後ともよろしくお願いいたします。
さて、ついに私たちの代にもブログリレーの順番が回ってきたと思うと、少し寂しさを感じます。拙い文章ではありますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。
学生野球を終えるのは、私にとって野球人生の大きな節目です。今回はこれまでの私の野球人生を振り返りながら、自分なりの想いを綴っていきたいと思います。
私の野球人生の始まりは、小学校1年生の頃に父親と2歳年上の兄の影響で地元の少年野球チームに入団したことでした。それから私の日常生活は大きく変化していきました。
その日常生活の大きな変化のきっかけとして、平日の夕方に練習熱心な父親とのマンツーマンでの野球の練習が始まったことが挙げられます。この練習が決して甘いものではなく、小学生ながら300~500球のバドミントンのシャトルを打つことや、体力テストで行われるシャトルランを1日に計3回走るなど、当時は父親と会うのが嫌になるほどの厳しい練習でした。毎日のように怒られ、泣きながら練習していたことを今でもよく覚えています。
しかし、その成果もあってか、小学生時代は地域でも「野球が上手い」と言ってもらえる存在になっていました。
中学校では硬式野球で技術をさらに向上させ、野球強豪校への進学を目指そうと決心し、当時入団テストが必要であったクラブチームに入団しました。そこは、後に甲子園の優勝メンバーとなるチームメイトがいるなど、小学生時代には考えられないようなレベルの高い環境でした。
中学校入学後でも続いた父親との練習とクラブチームでの地道な基礎練習に耐え、ようやく1年生大会と呼ばれる初めての公式戦を目前に控えた夏頃に、私の人生の転機となる出来事が起こりました。
外野での守備練習中に、私よりも体の大きな選手が私の右膝に衝突しました。
衝突後は激痛が走ると同時に、明らかに骨折とは違う何かが私の右膝に起きていました。翌日に病院で精密検査を受けたところ、右膝前十字靭帯の断裂が判明しました。
前十字靭帯は大腿骨と脛骨をつなぐ、膝関節の安定性を保つための重要な靭帯であり、前十字靭帯断裂は選手間での衝突が多いサッカーやバスケットボールなどで多く起こる怪我です。
通常は、他の部位から腱を移植する外科的手術によって1年前後で完治する怪我ですが、成長期の中学校1年生に対して外科的手術を行うのは不適切であり、治療は成長が止まるまで延期となりました。
そこで、担当医師からは中学野球を諦めるように告げられました。それは、辛くても父親と二人三脚で練習してきたこれまでの努力が水の泡となる言葉であり、抱いていた夢が一瞬で崩れ落ちた瞬間でした。
それでも、クラブチームに在籍していた優秀なトレーナー陣のおかげで、制限付きながらプレーを継続できる道が見え、リハビリに励むことができました。
1年に及ぶリハビリでは、同級生が次々と公式戦で活躍していく姿を見るなど精神的にも辛い日々が続きましたが、何とか乗り越えることができました。怪我の悪化という大きなリスクを抱えながら中学校2年生の秋頃には試合に出て、公式戦でホームランを打てるほどにまで成長することができました。
このブログを見ているはずもないですが、当時のトレーナーの方々には感謝しかありません。
大きな怪我を経験して、自分も医療現場で困っている人たちのために仕事をしたいと考えるようになりました。そこで、中学校進学時から考えていた野球強豪校への進学の夢を諦めて、都立大の放射線学科を目指すために地元の公立高校へと進学することにしました。
高校入学後、成長の終わりを迎えたタイミングで外科的手術により前十字靭帯を再建し、再度1年間のリハビリを経験しました。リハビリが終了した高校2年の春から、担当医師との相談の上、怪我の再発のリスクが比較的少ないと判断されたキャッチャーを始めました。
中学と高校で合わせて2年以上のリハビリを経験したので、野球ができる喜びを噛みしめながら、高校では朝練が始まる前も予備校から帰宅した深夜でもひたすらにバットを振りました。多少の周りとの野球に対する温度差を感じつつも、高校野球は悔いなく終えることができました。
大学では、成績や結果にこだわらず「楽しく野球をしたい」と考えていたため、硬式野球部への入部には少し迷いがありました。しかし、最後に両親に野球で活躍している姿を見せたいという思いから、硬式野球部に入部することを決意しました。
大学1年生の頃は、春のリーグ戦から代打としてチャンスを頂けたり、秋のリーグ戦では3番として高校時代に公式戦で1度も打ったことがなかったホームランを球場で打つことができたりと、かなり充実した大学野球生活を送ることができていました。
ところが、学部の都合で荒川キャンパスへと移った2年次以降は授業数と課題の多さ、距離の問題から十分な練習量を確保できず、打撃面で結果を残せない日々が続きました。それに加えて、キャッチャーが1人となった状態で迎えた2年秋リーグ頃、きっかけは正確にはわかりませんが1塁送球時のイップスが発生しました。投げ方も、力の入れ方もわからず悪送球を繰り返し、誰にも気持ちを分かってもらえない辛さと自分の代わりがいないプレッシャーで試合が精神的に苦しい時期が続きました。
その症状は1年経っても治ることはなく、3年秋にはその影響で振り逃げのバッターをアウトにすることができず、試合に敗れ、結果的にリーグ優勝を逃すということもありました。
練習や意識付けで改善できるものではなかったので、当時は悔しさのベクトルをどこに向けていいのかもわからず、辛かったです。
当初は病院実習が始まることから、3年秋で部活を引退しようと考えていましたが、さすがに後悔しか残らないと思い4年春まで野球を続けることを決心しました。
最後の4年春リーグでは与えられた数少ないチャンスをものにして、少しでもチームに貢献できるように努めていきたいと考えています。また、どのような結末であったとしても「楽しい大学野球生活だった」と胸を張って言えるように、最後まで頑張りたいと思います。
私の野球人生は怪我やアクシデントが多く、決して充実しているとはいえないものでしたが、私が野球から学んだことを1つ記したいと思います。
与えられた「運命」を受け入れることです。
例えば、今まで当たり前にできていたことがある日突然にできなくなる経験をした時に、悲観せずにその運命を受け入れることが大切だと思います。
以前まで私は中学時代の膝の怪我に対して負の感情を持っていましたが、あの経験があったから都立大に入学できて今の新しい夢を抱けていると考えると、必ずしも悪いものではなかったと捉えることができています。
与えられた運命を受け入れるという姿勢を、これからの人生でも大切にしていきたいと思います。
最後に、これまで支えてくださった方々へ感謝の気持ちを伝えさせてください。
先輩方へ
入学してからの野球の実力は右肩下がりであり、リーグ戦の大事な場面でミスをしてしまうなど皆さんの期待に応える活躍をすることはできませんでした。ただ、楽しい大学野球生活を送れたのは間違いなく皆さんが作り上げた土台のおかげだと思っています。本当にありがとうございました。
同期へ
普段は頭のおかしい言動や行動をする一方で、野球の時は顔色を変えてプレーする姿は同期としてもかっこよかったし、すごく頼りになる存在でした。最後に花を咲かせられるように、みんなで最後まで頑張ろう。
(卒業旅行は俺の国家試験が終わった後でよろしくね)
後輩へ
練習熱心で向上心のある後輩が多く本当に頼もしいです。4年生の良い所だけを吸収して、常勝チームになることを期待しています。とにかく大学野球を最後まで楽しんでください。
マネージャーへ
練習のサポートやリーグ戦の運営など、暑い日も寒い日もチームのために様々なことをしてくれて心から感謝しています。本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
両親へ
通常の練習でも6時台に家を出る必要があり、遠征の日は始発電車に乗ることも多々ありました。そんな時でも、朝起きて朝食の準備をしてくれたり、大学生活を何不自由なく送れるようにサポートしてくれてありがとう。
大学1年生の秋に2人の前でホームランを打てたことは、これまでの野球人生で最も嬉しかった出来事の1つです。
15年間の集大成として、最後は楽しく学生野球を終えられるように頑張るので、応援よろしくお願いします。
4年生1人1人には、それぞれの野球人生があり、そこから学ぶことや感じられることが多くあると思うので、今後のブログリレーにも注目してください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
次のブログは都立大のエースである小杉君です。何を書いてくれるのか非常に楽しみではありますが、おそらくまだ何も書いていないと思うので気長にお待ちください!