こんにちは。
理学部生命科学科4年の渡邉舜です。
はじめに、硬式野球部を常日頃から応援、支援してくださっている皆様に感謝を申し上げます。これからもよろしくお願いいたします。
毎年、卒業していく先輩たちのブログを読んで、こいつおもんないなとか、この人の文章には惹かれるなとか勝手に評価していた私もあっという間に評価される側になってしまいました。歳を取るほど時間が早く感じると言っていたジャネーさんの言葉を身に染みて感じます。退屈しない文章を書くつもりなので、最後の旅にどうかご同行ください。
僕が野球に出会ったのは小学校3年生の頃でした。元々、3年ほどサッカーをやっていましたが本格的にやるにあたって地元のチームへ見学に行った際に、知らん奴に喧嘩を売られたのでやめました。兄もやっていて、友達も多かった野球チームへ親友の誕生日に入ったのを今でも覚えています。地元では強い方のチームで比較的レベルが高く、勝つことが多かったような気がします。そんな環境で野球が楽しいと感じたためか、中学校でも続けようと思いました。
中学校では軟式野球部に所属しました。入学した4月に髪の毛が五厘になりました。一般的な言葉だと0.5mmです。その日からあだ名がタマゴボーロになりました。人生のショックな出来事ランキングに必ずランクインするでしょう。3学年で50人ほどと他の中学校と比べてかなり多く強豪だったので、まあ案の定練習はきつく、トップダウンで常に恐怖を感じながら野球をしていました。朝練で200mトラック10周は当たり前で、ミスをすれば怒鳴られ、給水もまともにできず、先輩には殴られ蹴られ、とおよそ現代の部活動とは思えない環境を経験しました。吐いたり、泣いたりしている光景を見るのも日常茶飯事です。デッドボールを避けたら怒られるんですよ。すごいですよね。しかし、2年生になる時に鬼顧問の先生がいなくなり、新しく来た外部指導員は全く逆の指導方針で主体的な野球に変わりました。ここまで真逆の方向転換を経験したのはスポーツ経験者の中でも珍しいと思います。そんなこんなあって、楽しくもあり、つらくもあった中学校野球も幕を閉じました。公式戦の結果はかなり良かったと思います。伝え方が悪くなってしまったけれど鬼顧問の先生も外部指導員の方もかなり尊敬している人たちであることを補足しておきます。
高校に上がると野球のボールが硬式に変わります。実はデッドボールが怖かったので当初、高校ではやるつもりはありませんでした。しかし、兄もやっていたし、先生や母からもやってほしそうな雰囲気を感じたので続けることにしました。私が入学した高校の野球部はザ・中堅公立で、ガチはガチだけどガチじゃない、私立には敵わない、そんな雰囲気を感じました。入部して初めての夏、2つ上の先輩が強豪相手にドラマみたいな展開で勝ち続け、西東京ベスト8という成績を残しました。これ結構すごいことなんです。でも、ベスト4をかけた試合で創価高校にコールド負けした時、希望と絶望で、はさみ潰される感覚を覚えました。雲を突き抜けているような壁がそそり立っているのです。だから、僕は等身大で野球をやろうと決心しました。月日は流れ、自分たちの代になるまでそう長くはありませんでした。個人的に自分たちを歴代最強だと確信しています。練習試合をすれば誰かしらホームランを打ち、強豪にも引けを取らない結果を残していました。そんな中で迎えた夏の大会、話し合いの末掲げた目標は“甲子園出場”でした。おい、話がちげぇぞと、数行前に等身大って書いてるだろと思うでしょうが、これが僕たちの等身大だと胸を張って言えます。迎えた1戦目
、降雨もあり長く長く続いた試合、12回裏同点0死2塁で打席が回ってきました。ワンヒットでサヨナラの場面、誰の声援も聞こえなくなる静寂のグラウンド、心臓の音とユニホームが擦れる音、仏すらも息を呑む瞬間、真ん中高めのストレートをフルスイング。ボールは大きな放物線を描き、レフトへとぐんぐん伸びて、ネットを揺らしました。右手を掲げながら、大歓声の中、ダイヤモンドを1周したのは野球をしていて1番最高の瞬間だった。しかし、終わりは唐突に訪れ3戦目で敗退してしまいます。私立は強くて当たり前と斜に構えていた僕たちはただの公立に負けるという、何とも皮肉な結果で夏が終わりました。
大学野球は楽しくやろうという一心で始めました。自分の能力には自信があったので、試合に出られないことはないだろうと思っていました。そもそも出られないなら続けるつもりはなかったですが。案の定、1年の春から出場機会を得られ、そこからほぼ全試合に出場しました。しかし、打撃がよかったかというとそうでもなく、打率2割前後を彷徨っていました。面白くないなと思ったことも少なくはありません。僕は自分が打って、守って、活躍できればそれでいいんです。チームの勝敗なんかは二の次で自分が出てない試合なんかはどーでもいいんです。高校の先生から “お前がやっているのはチームプレイではない、個人プレーだ。だから、今後お前にはサインを一切出さない。” と言われるような否定されるべき野球しかできないんです。でも、そんな野球観を幹部代になって曲げてしまったのが唯一の心残りだなと感じます。話が逸れましたがチームも入部当初よりも力をつけてきて、優勝が視野に入っているのでこのまま全力で駆け抜けようと思っています。春に優勝が出来ないなら秋で優勝すればいい。ハングリー精神で有終之美を飾りたいです。
最後にお世話になった人に一言ずつ綴りたいと思います。
先輩方へ
多分僕は印象が良くなかったと思います。不機嫌になったり、楯突いたり、暴言を吐いたり、扱いづらかったのではないでしょうか。文字に起こすとほんとに頭のおかしい奴ですね。ただ、それが僕なので反省はしてないです。そんな僕を試合に出し続けてくれたことはとても感謝しています。ありがとうございました。いつでも応援に来てください。お待ちしております。
後輩たちへ
みんなまじめで頑張り屋さんたちで尊敬しています。どうかその心持ちを腐らせないでください。試合に出ることがすべてではないですから、楽しくのびのびと野球に向き合ってください。そんな中で自分の野球観を見つけられれば、この上ない幸せでしょう。長い間、あるいは短い間だったけどありがとうございました。
マネージャーたちへ
いつも僕たちのお世話をしてくれてありがとうございます。マネージャーの努力って目に見えにくく、感じづらい部分があるので小さなことでも感謝しきれているかが心配です。私こんなことしています!って言ってくれたら楽なんですけど、謙虚な子たちなのでそうはいかないですよね。後輩たちには恩着せがましくガツガツいったりましょう。
同期へ
いつも本音を言って、定期的にガチ喧嘩をしているほどなので意外に書くことがなかったです。ただ、1つ言えることはこのメンツじゃなかったら多分1年経たずで辞めています。それくらい波長が合う奴らだなって思います。あと優勝が出来れば最高の大学野球だったと未来の僕が言えるので、ラストスパート頑張りましょう。
母さんへ
おそらく、いや確実にこの文章を読んでいると思います。なんなら、このブログの文章は母さん宛の手紙のようなものです。三兄弟最後の野球が僕の大学野球になるなんて思ってもみなかったでしょう。なんでもいい思考の僕に、良さげな高校も大学も見つけてきてくれて、最高の野球人生の立役者になってくれてありがとう。いつも、色んなことを支えて応援してくれてありがとう。こうやって引退の時に毎回感謝を伝えるのですが、正直全然足りていないと思います。きっと人生を何回繰り返しても足を向けて寝ることが出来ないです。いつもありがとう。野球馬鹿たちのお世話ももうすぐ終わりなのでどうか最後まで付き合ってください。
そんなこんなで僕のブログももうおしまいです。退屈はしましたか?書こうと思えば1万字でも2万字でも書ける自信があるほど密度が濃い野球人生を語ってみました。こうやって書いているとやっぱり野球が好きなんだなって再三思わされます。残りの野球人生、悔いのないように頑張ります。
長い文章を最後までご覧いただきありがとうございました。
次回は名将監督との呼び声も高い松尾くんです。ここ3年で最多勝を誇る彼は一体何を語るのでしょうか。楽しみにしています。