ブログリレー5人目は髙野優成さんです!
こんにちは。
システムデザイン学部電子情報システム工学科4年髙野優成です。
初めに、日頃から都立大硬式野球部を支えて下さっているOB・OG、大学、連盟の方々、保護者の皆様、その他ご協力して下さっている方々にこの場を借りて感謝申し上げます。
ついにブログリレーを書く順番が回ってきてしまいました。今まで先輩が書いていたブログをなんとなく目を通してきましたが、いざ自分が書くとなると入学してから時間が経った事を実感します。
何を書くか悩みましたが、これまでの野球人生を振り返ってみようと思います。
本格的に野球を始めたのは小学2年生から3年生に上がる時期でした。本当の始まりはもういつだかは覚えていませんが、父と公園でキャッチボールをした時だったはずです。その時の私は右投げ右打ちでした。父が左利きだった事もあり少年野球チームに入部する時には左投げ左打ちに矯正していました。
左打ちに変える事に難しいと感じた記憶はなく、今では本当に右打ちだったのか覚えていないくらいです。
しかし問題なのは投げる方でした。そもそも左投げを始めたきっかけは、父に「ピッチャーをやるなら左投げの方が有利」と言われたことです。しかし打つ方は違い、いきなり利き手ではない方で投げるというのは難しく当時の私は左投げを断念しようと思いました。それでも左投げをやめなかったのは父が根気強くキャッチボールに付き合ってくれたからです。当時の頑張りが今の自分を作ったと言って過言ではないと思います。
そんな困難にぶつかりながらも少年野球時代は自分も満足のいく活躍ができ、小学生最後の大会を区単位の小さなものではありましたが優勝で終える事ができました。
あの瞬間は大学生になった今でも忘れられません。
中学生に上がってからは通っていた中学の部活ではなく硬式球を扱うシニアを選びました。高校でも野球をやると考えたら、中学生のうちに硬式野球に慣れておけばそれだけでアドバンテージになると考えたからです。
私が所属していたシニアはあまりレベルは高くなく、少人数だった事もあり試合には多く出させて頂きました。しかし、チームの環境はハッキリ言って良くありませんでした。事務局がうまく機能していなかったり、コーチ陣の仲が悪かったり、監督が突然変わったりとにかく色々な事がありました。
中学野球は楽しかったとは言えませんが、それでも試合に出れていたので辞める事もなく3年間続ける事が出来ました。
そして高校生になりました。
中学生では野球を完全には楽しめなかったこともあり、高校ではのびのびと部活が出来る公立高校を受験しましたが結果はまさかの不合格。
併願した日本大学藤沢高校に入学する事が決まりました。合格発表日は一緒に受験していた友達と合否を確かめて自分だけ落ちていて最悪の空気だった事を覚えています。学校からの一人の帰り道は涙もでず、親にただ「落ちた」とLINEを入れて電車に乗りました。
大学受験では絶対に失敗したくないと思い、高校では進学に重きを置いた特別進学コースいわゆる特進コースを選んで入学する事を決めました。
私が入学した日本大学藤沢高校はスポーツにも力を入れており野球も例外ではありませんでした。
過去に4回甲子園に出場しており、神奈川県内でベスト8に入るくらいの実力がありそれ相応に練習も厳しいと聞いていました。入学式よりも早く練習が始まることから入学する前から監督、顧問と個人ごとに話をしました。そこで顧問の口から
「うちの野球部は本気で甲子園出場を目指してるから練習中に暴力を振るわれる事もあるかもしれない」
という衝撃的な発言を聞きました。(時代的にそう言った話はもう無いと思います笑)
高校ではのびのびと野球をやろうと考えていた私はその言葉を聞いて入部するかかなり悩みました。高校で野球を続けたいという意思はありましたがこの環境で3年間ついていけるのか、勉強と両立できるのか不安でいっぱいだったからです。
結果として入部を決断しました。両親と話し合って
「まずやってみて本当に辛くなったら辞めても良い」
と言ってくれたからです。
そうして私の高校生活は始まりました。
高校野球は本当に辛かった思い出ばかりでした。1年の夏が終わるまではとにかくダッシュと筋トレばかりで練習が終わればミーティングで教育係の先輩から理不尽に怒られる日々、毎日毎日先輩に怒らないようにするにはどうしたら良いかばかり考えて過ごしていました。入学後の1〜2ヶ月で体重は12kg落ち、喉は数え切れないほど枯れて授業中に指されても声を発する事が出来ない事もしばしばありました。
当時は1学年に20人くらいで3学年合わせて60人程の部員数で2年生になるまではB戦での出場がほとんどでした。
しかし、2年の夏のあるop戦で普段はB戦には顔を出す事のない監督が試合を観に来た時にホームランを打ち、守備でも捕殺を決めた事がありました。大会前のメンバーがまだ確定していない時期だった事から念願のメンバー入りを果たせると思いました。
メンバー発表の日は1年生の時とは違い期待感を抱きながら監督からメンバーが告げられるのを聞いていました。しかし私の名前が呼ばれることはありませんでした。この日、私はこのチームでメンバーに選べることはないのだろうと悟りました。
3年生の最後の大会、ついに私の名前が呼ばれる事はありませんでした。幸いコロナの関係もあり、特別に1試合ごとにメンバーを入れ替えられることになったため、その枠で数試合グラウンドに立つ事が出来ました。しかし私はチームが勝っても喜びをあまり感じれなかった事を覚えています。
高校で不完全燃焼だった私は大学に入学すると最初に野球部の練習体験会に参加しました。都立大の野球部は練習をのびのびとしている印象で、ここでなら4年間続けられると思い入部を決めました。
私はありがたいことに入部したばかりの春から試合に出させて頂き1年の秋季リーグでは優勝を経験する事が出来ました。自身としても3割以上をキープしてシーズンを終えることができ、満足のいく大会でした。来年以降は1部に昇格することができるのでは、と当時は思いました。
しかし、2年生に上がってから辛い時期が続きました。
チームとしても頼りになる先輩が抜けなかなか試合に勝てなくなり、自分がチームを引っ張っていかなければと思う反面、肉離れなどの怪我によって逆にチームの足を引っ張ることになってしまいました。
3年生になってからは満足のいく練習時間を確保する事が難しくなっていき、他大学との実力の差を感じるようになりました。
1年生の頃は1部昇格をかけてプレーオフをしていたのに気づけば最下位争い、2部残留をかけてプレーオフに臨むようになっており不甲斐なさでいっぱいでした。
4年生になってからは授業の関係でより一層全体の練習に参加することが難しい状況になってしまいました。そこで、少ない時間でどれだけ意味のある練習をするか考えるようになりました。そのために上のレベルで活躍している選手がどのような練習をしているのか、どのようなトレーニングをしているのかを自分で調べるようになりました。
大学野球は高校野球とは練習時間に大きな差があり大学生になってから成長する事は難しいかもしれません。短い時間でどれだけ質の濃い練習をするか、これが大学野球の一番難しいところだと4年になった今感じました。同時にこの経験は今後の人生の糧になるだろうと思いました。
ここまで「自分の野球人生について振り返る」というテーマで長々と書いてきましたが、読み返してみると自分の人生のほとんどが野球に詰まっていたのだと実感しました。大学野球が自分の野球人生の大きな区切りになると思うので、後悔のないように引退まで精一杯頑張りたいと思います。
最後にお世話になった方々へ
先輩方へ
優しく接して下さりありがとうございました。
先輩方は個性が強い人が多くて共に過ごせる時間がとても楽しかったです。
リーグ戦で成長した姿を見せられるように頑張ります。
同期へ
思い返せば一度も喧嘩をする事が無かったと思います。喧嘩するほど仲が良いという言葉もあるかもしれませんがそんな事は無いと思ってます。
互いを認め合える同期が好きです。
卒業旅行は欠席しないように予定あけときます。
1年生へ
入部を決めてくれてありがとう
大学の4年間は本当にあっという間だから1日1日を大切にして欲しいです。
焦らず頑張れ!
2年生へ
一人一人が向上心を持っていて、練習後に自主練している人が多くて素晴らしいです。
すぐに結果が出なくても継続すればいつか必ず結果が出ると思います。
先輩を追い越す勢いで頑張れ!
3年生へ
すでにチームの主軸になってくれてとても頼もしいです。
これから幹部代として、ぶつかり合うことがあると思います。言葉でぶつかり合っても拳でぶつかり合わないように気をつけて欲しいです。
ガンバレ!
父へ
野球を教えてくれてありがとう。
公園でのキャッチボールはたぶん死ぬまで忘れないと思います。
仕事の後に練習に付き合ってくれたり、バッティングのことを一緒に考えてくれたりしてくれたから今の自分があると思います。
引退するまで目の前でホームランを打てるよう頑張ります。
母へ
ずっと支えてくれてありがとう。
ご飯や洗濯など面倒ごとをほとんど任せっきりしてしまい申し訳ないです。
試合観戦をするのも面倒くさいと思うかもしれませんが、残りわずかなので目に焼き付けといて下さい。まだもう少しお世話になります。
大変長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
リーグ戦も残すところ3試合です。1つでも多く勝てるよう頑張りますので応援よろしくお願いします。
次回は中村嵩広くんです。
お楽しみに!